ガバチョ・マネー研究会 

北海学園大 2000.4.7

「地域通貨の現代的意義」

最初はアットホームな会だと聞いていたので,今日は私は話をしにくるというよりはディスカッション形式にして,最初に皆さんに一人ずつ自己紹介をして頂いて,どんな問題意識でいらしたのかお聞きできればいいなと思っていたんです。でも思ったよりも人数が多いようですし,時間の関係もありますので,それはあとで質問のときにひっくるめてお話して頂こうと思います。

私の本業は地域通貨の研究というわけではなく,もっと抽象的な経済理論の研究をしています。こういうヴィヴィッドな問題に関心を持ち始めたのは実はつい数年前のことで,LETS自体について私自身が知っていたのはもう十数年前になりますけれども,これが本当にアクチュアルな意味を持つのかどうか自分自身があまり確信がないというか,あまり深く考えないまま十数年経ってしまいました。しかし,ことこの2,3年,経済や社会のいろいろな問題を考えているうちに,やはり地域通貨----これはLocal Currencyの訳語で,ほぼ同じ意味では,コミュニティマネーという言葉も使われていますけれども----問題をきちんと考え直す必要があると思い,いくつか書いた物を発表してきました。ちょうど日本でも地域通貨に対する関心が高まってきたということで,たまたま自分の考えてきたこととひとつの話が一致したわけです。もちろん,地域通貨が注目されるようになったのは,それなりの理由があるはずです。

そこで,今日は現代社会における地域通貨の背景からその意義や可能性についてお話したいと思います。まず皆さんにお聞きしたいのですが,地域通貨あるいはエコマネーについて,それがだいたいどんなものかといった基本的な内容や仕組みについてはご存知でしょうか。知っているという方は手を上げていただきたいのですが。はい,どうもありがとうございます。見たところ,手を上げた方が8_9割ぐらいいらっしゃるようなので,今日は地域通貨とは何かのような基礎的な解説というよりも,もう少し話を応用編まで広げて,なぜ私が地域通貨に着目しているのか,地域通貨が現代社会にとってどういう意味をもつのか,あるいは21世紀の中で本当に地域通貨が広がっていって,大きな可能性を生み出していくのか,などについてお話をしたいと思います。最近ある雑誌に「コミュニケーションとしての貨幣」(『アステイオン』53号)というタイトルで地域通貨に関して書いたのですが,今日はそれに沿ってお話をしたいと思います。

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私たちがコミュニケーションというときに,言葉によるコミュニケーションというのは分かりやすいですが,貨幣によるコミュニケーションということは普通あまり言わないと思います。しかし,人間と人間が何らかの媒体を介して情報のやりとりするという点では,貨幣と言語は,類似的な性質を持つと思います。もちろん二つは全く異なるレベルにあります。貨幣というのは経済的価値を伝達する経済的なメディア,言語は意味を伝達する文化的なメディアで,経済と文化という相容れない分野に存在しています。私が考えているのは,地域通貨を通してこの二つを統合される可能性があるのではないかということです。この結論へいたる前に,いくつかの補助的な考察をしたいと思います。

まず現代,特に1990年代になってからどういうふうな問題が出てくるのか見てみましょう。「不安」というのが90年代のひとつのキーワードであるという気がします。80年代末のバブル崩壊にはじまって,この10年間ずっと不況が続いて来ました。これだけ不況が続いたことは戦後で初めてのことで,失業率が4.9%になるという非常に厳しい状況が続いています。特に北海道の場合は,拓銀の破綻以降,中小企業を中心に倒産件数も高く,失業率も全国平均より高いといった,きわめて深刻な経済状況が続いています。もう少し広く見ていくと,環境問題,地球温暖化の問題とか,あるいは高齢化に伴う介護・福祉の問題も出てきています。それからもう一方では,最近コミュニティーの崩壊ということがいわれておりまして,家族とか学校,あるいは地域社会が基盤を失いつつある。これらは,やはり規制緩和がなされ,貿易や投資が自由化され,地球全体が市場経済化していくといったグローバリゼーションの進展,あるいは市場だけで経済がコントロールできるという市場原理主義の考え方の蔓延という視点から見ていかなければなりません。グローバリゼーションは単なる人々のひとつの考え方ではなくて現実に起こっていることですね。世界がひとつのマーケットに近づいているという一つの現実的な流れがあります。グローバリゼーションの問題点は,この2,3年,例えば通貨危機のような形でアジア,南米,ロシアなどで出てきた。グローバリズムあるいは自由貿易主義に対して,さまざまな形で反グローバリズムの運動が出てきていますが,これについて私が危惧しているのは,こうした運動が感情的な反発になってしまってはまずいだろうということです。それでは,保護主義やナショナリズムの方向へ行ってしまうことになる。それはいわば,第二次世界大戦前のように,経済的にはブロック化により各国が内向きに閉じつつ,対外的には資源や市場を獲得するために好戦的になるといった状況ですから,非常に危険ではないかと思います。そうならないためには,現状における問題を一定のきちんとした理論に基づいて冷静に認識し,未来を展望する必要がある。その場合に重要になるのは,やはり貨幣や市場の捉え方をもう一度考え直してみる必要があるだろうということです。これは,もちろん現代の経済学の課題であるわけです。今日は経済学の理論について詳しい話をするつもりはありませんけれども,そういう理論的なバックボーンがあって,現代の問題や地域通貨についてを考えているということを知っていただければと思います。

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グローバリゼーションには二つの傾向があります。一つは市場自体が地球規模でどんどん広がっていく,いわば空間と範囲が拡大していくということで,これは例えば,EUとかNAFTAのような通貨や貿易に関するリージョナルな経済統合の発展,あるいはインターネットのようなコンピュータ・ネットワークの上での金融取引や電子商取引の増大というかたちで現れています。地球全体の市場規模は,アジア,アフリカや南米の発展途上国のみならず,ロシアや東欧の旧社会主義国や中国を巻き込みながら,どんどん拡大していく傾向がみられるわけです。これは,市場の「外延的拡大」ということです。

もう一方で特に私が注目したいのは,市場の「内包的深化」と呼びうるような傾向のことなんですね。それは,いままで貨幣に対して売られていなかった財やサービスが商品という形をとって市場で売られるようになる「商品化」という現象として現れます。これは市場が発達するにともなってずっと続いてきた非常に大きな流れなのですが,特に顕著に現れるのは,資本主義経済が発展してきた16世紀から現代にかけてです。この傾向は時代により速くなったり遅くなったりしますが,現代では,これが一段と加速化されているのです。一般に,この市場の内包的深化は市場原理とは異なる原理に基いて成立しているコミュニティを分解していきます。

具体的にはどういうことかを見てみましょう。現代では数十年前までは想像できなかったようなさまざまなモノや情報が商品化されている。遺伝子組み替え食品が市場で売られたり,あるいは臓器とか生殖細胞のようなものも一定の価格で売られたりしている。今日の新聞で人間の染色体ヒトゲノムの遺伝子情報が完全に解読されたと報道されましたけれども,まさにDNA情報を特許化して囲い込み,医薬会社などに商品として売ろうということになってきているわけです。こういうように,商品の中身がどんどん拡大していくような商品化,すなわち市場の深化が市場の拡大と同時に進行しているところを見なければならない。私たちが不安を感じていることは,もちろん先に見た市場の空間的な拡大ということもあるのですが,市場の内実が深まっていくという側面にもっと大きく関係しているのです。なぜならば,こうした傾向の中で,従来ならば市場ではない領域としてのコミュニティが市場によってどんどん分解されていくわけですね。私たちの体もバラバラに分解されて,ひとつひとつの臓器として売られている。あるいは,家族というものもひとつの共同体というよりは,経済的利益を原理にして形成された団体としての性格を強くしています。一時「DINKS」という言葉が流行りましたが,あれなどがそうした傾向を代表しています。所得を独立に稼ぎ,個人として費用をできるだけ減らし,より大きな満足を得ようとしている男女が,お互いの利益が一致する限りで婚姻形態をとり,子供は大きな負担なので持たないというような家族のかたちですね。いうまでもなく,家事や育児や介護などは大きな負担を強いる費用と考えられ,回避される傾向にあります。少子化や単身化,パラサイト・シングル化が進んでいるはこの点から理解できるでしょう。

1980年代を通じて,消費者としての個人が前面に出てきたので,日本は高度消費社会とか大衆消費社会にあるなどといわれました。このように,80年代後半のバブルまでは,どちらかというと消費者としての意識が強かったといえます。ところが90年代以降のグローバリゼーション,特にいま進んでいるような金融自由化や金融ビックバンは,私たちが投資家であることを強く意識させます。そこでは,私たちは消費者としての個人というよりも,投資家としての個人に還元されるのです。グローバリゼーションがいま目指しているものは,企業だけでなく個人が投資家の意識をもつような世界,いわば「自由投資主義」の世界ではないかと思います。実際,現代において一般言われている「自由」の多くは「投資家としての自由」であると言ってしまってよいのではないかと思います。情報とリスクの開示の下で個人が代替的な機会から,最も収益性が高いと思われるものを選択することができるというのが,投資家としての自由です。

もちろん本来の自由にはいろんな意味があります。バーリンという学者は,積極的自由と消極的自由とに分けました。ここで,積極的自由とは,「への自由」というように,完全な平等のような,ある理想的な状態へ達するための条件や機会が与えられていることです。これに対して,消極的自由というのは「からの自由」,つまり拘束されることに対して,拘束がないことを意味しています。バーリンは,自由主義は消極的自由を追求すべきだといいました。現代の自由主義者のほとんども,自由を消極的自由であると理解しています。

投資家としての自由というのはさまざまな規制や共同体の規範や伝統などに縛られないという意味ですから,消極的自由であるといってよいでしょう。しかし,人々により多くの利潤を追求していく投資家になれと求め,自由投資主義を理想としているという意味では,そこには「への自由」という積極的自由の側面も含まれていると見るべきです。やはり消極的自由にも,「なんのための自由か」といった形で自由の「目的」が見えない形で含まれていると考えなければなりません。グローバリゼーションはコミュニティを崩壊させる傾向があるということを先に述べました。そうだとすると,投資家の自由は,自由投資主義という目的以外の目的を追求するための自由,例えばコミュニティの維持や発展の自由を実質的に制限してしまうということが問題になるのではないでしょうか。これは,自由主義者の立場にたってもいえることなのです。

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では,コミュニティがどういうふうに崩壊していくか,その壊れ方を学校を例に考えてみましょう。学校ではいま学生の意識が変わっているとよくいわれます。それはいろいろな問題があるはずですが,投資家の自由の蔓延が引き起こしたものではないかと私は見ています。

かつてベッカーという経済学者が「ヒューマン・キャピタル(人的資本)の理論」を1960年代に発表しましたが,最初はあまり受けがよくなかった。人間の教育という学問や文化に関わることを投資という面から見るなんてけしからんというわけです。しかしこれが80年代,90年代には一般的になってきました。経済学者だけではなく,一般の人々もそういう考えをとるようになってきたのです。この人的資本の考え方では,教育というのは自分に対する投資であると考えます。

例えば英会話教室に通うとする。英会話ができるようになれば,外資系企業へ就職できて給料も上がることになるでしょう。このように考えると,英会話の学校へ通うことも将来収益を見込んで投資をするということになる。自分はいくらぐらいの将来収益をあげられるかを予想して,その将来収益を利子率を使って現在価値に換算して,それと現在の投資額を比較して得られる収益が投資よりも大きければ投資する,少なければ投資をしないということになる。

これが,人的資本という考え方です。確かに合理的な考えといえるでしょうが,これがどんどん拡がり,学校へ通う子供やその親もそう考えるようになっています。ですから私は大学生もどちらかといえば投資家になってきていると見ているのですが,学生が将来役に立ちそうもない,もっとはっきりいえば儲かりそうもない学問はダメだ,文学,哲学,あるいは私などが教えている経済理論のようなものは役にたたないと考えるようになってしまったんですね。

こういう考え方はいままでにもあったことは確かです。経済学はつぶしがきく,なんて言い方もありましたし。ところが現在は何が違うのかというと,さらに投資家の意識が明確になってきたこと,それから学生だけでなく大学側,行政側まで同じ考え方になってきたということ,そしてこうした考え方に歯止めをかけてきたコミュニティやその規範がなし崩し的に壊れているということです。国公立大学の独立行政法人化も,まさに教育や研究を効率的な投資プロジェクトにせよと主張しているわけですが,本当にそれでいいのかということを考えなくてはいけないわけです。

もう一方で,性の商品化や家族の問題などについても同じことが言えます。それらは,きわめて倫理的,道徳的な問題であると言われてきましたが,実はきわめて経済的な起源をもっているということを見なければなりません。しつけが悪いから家族で何とかしろ,親はもっとしっかりしろ,学校の先生はもう少しよい教育をすべきだとか,そういったことをいくら言ってみても無駄です。こうした問題は,すべては経済的基盤が変わってきたことの結果なわけですから,経済のあり方そのものから変えない限りは解決しないのです。これは結局全ては投資家としての消極的な自由を追求していく結果として自ずと出てくるような問題なのですから。

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こういう時代の中で若者のコミュニケーションがどういう形態になってきているかという話に移りましょう。あるところでLETSについて,フリマ(フリーマーケット)との関連について話して欲しいといわれて,フリマの様子を観察し,現在の若者がコミュニケーションをどのように捉えているか考えてみました。いま,皆さんご存知のように,ケータイ(携帯電話)は若者にとって,非常に人気のあるコミュニケーションツールです。お小遣いのほとんどをそれに費やしているという人もいるようです。一方でフリマも若者の間で最近ブームになってきている。この二つを比較してみることにしました。

ケータイというものは,言葉によってやりとりをしているわけですから,これはコミュニケーションに違いないわけですが,ふたりの人間がつながっているという感覚を共有する,瞬間的,時間的につながっているという,時間的同一性とか,共同性を確認する作業のために電話を使い言語を使っているのですが,基本的にはあまり大した内容が交わされていない。「元気?」「うん,元気」というような。そこには自分と違う他者に対しての会話,コミュニケーションがなされているようには見えません。ですから,私はケータイというものは他者とのぶつかり合いになるようなコミュニケーションを避けるための手段になっているのではないかと考えます。一方,フリマの方ですが,一般の市場では非常に強い個と個のぶつかり合いがある。売り手と買い手ですね。つまり売り手は一生懸命ものを売ろうと買い手に働きかける。買い手は買うか買わないかの決定権を持っているという意味において,貨幣を持っている買い手の方が強い立場にあるわけです。商品を売ってそれを貨幣に換えることをマルクスは「命がけの飛躍」と呼んだわけですが,フリマの場合にはそういった非常に強い「命がけの飛躍」,あるいは個と個のぶつかり合いを伴うような関係は少ないです。見ていると,多くの若者は売ろうという意欲があまり見られずただ座っているという感じです。フリマにはいろいろな形態があります。絵を描いたり,ものを作ったり,Tシャツにプリントしたようなものを置いていたりする。「売る気があるの?」といった感じで座っているわけです。要するに売ることに関して脅迫観念がなく,ただ座って待っているという感じなのです。一体感を求めているというよりは,いわば脱力しているというような部分があり,そういう意味で個そのものがソフトになっている。かつて「柔らかな個人主義」という言葉がありましたけれども,もっと若者はソフトな流通を求めているわけです。ハードな流通というのが一般の市場における流通だとすると,フリマのそれはソフトになっている。ここには「命がけの飛躍」があまり見られない。売り手と買い手が非常にフラットな関係になっており,地域通貨につながるような可能性があるかなと思いました。ですから,私はケータイは非コミュニケーションで,フリマの方は擬似的コミュニケーションだと思います。フリマはコミュニケーションのシミュレーションであるけれども,従来の市場を超えるような部分もあると思います。

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最近IT革命が叫ばれていて,新聞等を読んでいると,インターネットという言葉を必ず一日に一度は目にすることがあると思います。このインターネットという言葉は10年前には殆ど聞かなかった。私自身は15年ほど前からマッキントッシュを使っていますが,最近ではこのマッキントッシュは殆ど市場から駆逐されそうになっていて,Windowsがグローバル・スタンダード,ディファクト・スタンダードになっているわけです。インターネットによりパソコン通信も駆逐されてしまった。

このいまやグローバル・スタンダードになったインターネットと市場を比較してみます。なぜ比較するのかというと,私は基本的にはインターネットと市場というものがほとんど変わらないと考えているからです。

インターネットというものが何かを知るためには,二つのネットワークを比較すると分かり易いですね。ひとつはintelligent network,つまり「賢いネットワーク」で,もうひとつがstupid network,つまり「お馬鹿なネットワーク」というものです。賢いネットワークというのは例えば電話交換機のようなものを想像してみてください。電話交換機が中央にあって,それにたくさんの電話回線がタコ足で繋がっている。これ自体が一種の階層的な組織というか,集中型のネットワークになっているわけです。これらをAT&T(American Telephone Telecom)の研究員が比較したのですが,彼は電話会社の人間ですから,当然ながら前者の方がよいというにちがいないと思いますよね。しかし実際にはそうではなくて,これからはインターネットワークのような「お馬鹿なネットワーク」の方がいいんだということを書いて,それが外部に漏れてしまって物議をかもしたわけです。「賢いネットワーク」の方は電話交換機が高速ですべての情報を処理しなければならないわけですから,スーパーコンピューターのようなものが必要になってきて,たくさん回線が繋がれば繋がるほど大規模になり,処理に時間がかかるようになる。これに対して,「お馬鹿なネットワーク」の方は,いろいろなサーバーが直接繋がっているため,分散処理型のネットワークになっているわけです。さまざまなルーターによって繋がっているんです。どういうふうにして繋がっているかというと,TCP/IPのような一定の規約,プロトコールに基づいて情報をパケット(小包型)にしてそれを次々に転送していく。このため,情報を小分けにしていろいろな経路から送ることができるわけです。インターネットがどうしてよいのかということに関していろいろ言われていますけれども,阪神大震災の時にも電話はダウンしてしまったのにインターネットは大丈夫だったことが知られているように,それは非常に頑強なネットワークです。もともとアメリカ国防省が軍事用のネットワークとして開発させたものですから,当然そういう性質を持っているんですね。どこか一部が切れたとしても,他が残っているので必ず繋がる。この面白いところは,バケツリレー方式で来たものを送り先に近いところへ送るという指示があってそれによってデータを送っている。しかもプラットフォームそのものがオープン・スタンダードになっているので,こういうTCP/IPの形になっていればいかなるハードでも繋がっていける。こうして,ハードやソフトのモジュール化や階層化が可能になり,それにより技術革新が格段に進むようになるわけです。

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以上がインターネットについてでしたが,今度はそれと比べた場合の市場についてお話します。いままで皆さんが経済学で市場とはどういうものですかと問われた場合,モノを売買する場所とか,需要と供給がちょうど一致するところで価格が決まる場所とか,そのように習っていたんではないかと思います。経済学のミクロ理論では,競争市場は資源の効率的な配分を行うためのメカニズムであるというように教えていたと思います。しかし私が言いたいのは,そういう市場の捉えかたが間違っていたということです。じゃあ,どのように市場を捉えるべきなのか。

いま述べたような市場では貨幣がないんですね。貨幣がないような市場をもとに市場経済とか,あるいは市場経済の効率性を説いても意味がない。では貨幣がある市場とはどういうものかというと,まさにインターネットにおける情報のカプセルと同じような役割を果たす貨幣を媒介にして商品の売りや買いが行われるような市場です。そこでは,売り手と買い手が一対一で相対(あいたい)で取引をやっているわけです。そして,売り手が貨幣で支払うときに,貨幣が経済的な価値を買い手から売り手へ伝えていく。売り手と買い手がその場その場でバラバラに取引しているわけですから,全員が売りたいもの,買いたいものを一つの場所に集めてから価格をオークションで決めるというようにはなっていない。例えば,株式市場や為替市場はこのようなオークション市場に近い面をもっていますが,これはほんの一部の市場にすぎなくて,大部分の市場はそうではないんですね。つまり,市場というものは,一般には,インターネットと同じような相対取引に基づくような分散型のネットワークだと考えなければならない。そういうふうに市場を考える時に初めて,貨幣が非常に意味のある仕掛けだということが見えてくるわけです。なぜ貨幣が意味があるのかというと,貨幣を持っていることによってモノがすぐ買えるという特権が手に入るからです。逆に言うと,貨幣によって,すべての人々が同時に売り買いをしなくてもよくなるのです。貨幣を持っていれば,欲しいものが出てきたときに買えばいい。つまり,物々交換をする必要がなくなるんですね。物々交換が成立するためには,交換の両方が相手のモノを欲しがっていなければいけない。二人の人間が相手にたいして売ると同時に買うというのは本当にごくまれにしか起きませんよね。ミクロ理論が考える市場はもっとありえなくて,すべてのものやサービスの需要と供給がちょうど一致するような価格で取引がされると考えている。これでは,貨幣がなくてもいいといっているようなものです。

貨幣はこうした交換にまつわる困難を,売りと買いを時間的にも空間的にも切り離すことによって解決しているのです。これが,市場が分散的であることの大きなメリットです。皆が自分の独自な知識や判断に基づいて,貨幣によって自分が買いたい時に買える。このように,全体の取引がうまくいくように予め調整しなくとも,売りや買いをバラバラに行っていっても市場経済はなんとか成立しているのです。市場はまさにさっきの「お馬鹿なネットワーク」そのもので,貨幣は,このように市場というものを分散的なネットワークにするという役割を担っているのです。だから,貨幣がなくては市場経済は全然動かないはずなのです。貨幣というもののメリットをそういうふうに捉えるべきだ,と私は考えています。市場経済における貨幣のメリットを考えながら,その一方で,金利による富の偏在や投資の偏り,投機や恐慌をもたらしたり,ハイパーインフレーションや不況を引き起こしてしまう貨幣の不安定性などをデメリットも考えるというスタンスをとらないといけないわけです。

ここでインターネットとは何かと考え直してみると,それは基本的には市場と同じようなものであることがわかります。いま見たように,市場もインターネットも「お馬鹿なネットワーク」という同じ性質を持っているのですから,インターネットが出てきたからといってそれだけで市場のデメリットがなくなったり,資本主義経済が変わるということはありえない。両者に違いがあるとすれば,市場は主としてモノやサービスのやり取りを行うのにたいし,インターネットはもっぱら電気信号を使ってさまざまな情報をやり取りするという点にあります。モノと情報の違いですね。モノの場合,それを私が所有していれば,他の人は所有できないし,だから消費できない。でも,情報の場合,それを誰かが排他的に所有しなくともよい。みんなで共有しても,情報そのものがなくなるわけではありません。もちろん,みんなが同じ情報を持てば,その情報の希少性は失われますから,経済的価値はなくなってしまうかもしれませんが。

インターネットは,この情報が共有できるという性質から生まれたといっても過言ではありません。例えば,私のホームページの情報はそこに接続できる人すべてが知ることができる。そのかわり,私は他の人のホームページから自分が知らない情報を知ることができるわけですね。このように,情報を共有することができれば,お互いに大きなメリットがあるはずです。こうした考えは,フリーソフトウェアと呼ばれるようなプログラムを生み出しました。ここで,フリーウェアとフリーソフトウェアは区別しなければいけません。フリーウェアは無料でダウンロードできるプログラムのことですが,それを利用者が自由に書き換えたりすることはできません。プログラムの中身がわからないからです。フリーソフトウェアとここで言っているのは,オープンソース・ソフトウェアと呼ばれているものと同じで,プログラムの中身,つまりソースコードが公開されていて,それを使ってプログラムを改編したり変更したりできるもののことです。

このフリーソフトウェアやオープンソースという言葉については皆さん最近耳にするようになったと思いますけれど,リーナス・トーヴァルスという人が作ったとされているLinuxが代表的です。正確には,リーナスがOS(オペレーティング・システム)のすべてを作ったのではなく,中核となるカーネルを作っただけなので,GNULinuxというべきでしょう。カーネルをGNUの他のプログラムと一体にするとUnixではないOSであるGNULinuxができたというわけです。

GNU(グニュー)というのは,GNU is Not Unixという言葉の頭文字をとって作った名前です。コンピュータ・サーバーでは,Unixというのが共通のOSでした。これ自体,もともとフリーソフトウェアとして作られたのですが,AT&TがこのUnix自体を独占化してしまったため,それを使うためにはパテント料を払わなければいけなくなったんですね。そこで,従来から自由にそれを使ってきた人達が財団を作り,多くのプログラマーが協同してUnixとは違うOSを作ってしまおうということで始めたのがGNUの運動です。

こういうフリーソフトウェアは,後でお話する地域通貨と共通するような基本的な理念を持っています。どちらも「自由」,「共有」,「協同」,「情報公開」などの考え方に基づいているのです。フリーソフトウェアはどういうことを目指しているのか,なぜフリーソフトウェアがよいのかというと,単に無料だからというわけではないのです。いま,マイクロソフト社のようなところがフリーソフトウェアを脅威に感じているのは,大企業が作るソフトウェアよりもフリーソフトウェアの方が信頼性がより高いからです。インターネットを通じて何十万というボランティアが協力しながらプログラムのバグをどんどん直していくわけですから,当然信頼性の高いソフトウェアができあがる。普通は無料だと信頼性が下がるのではないかと考えがちですが,実際には逆です。情報を公開し,みんながソフトウェアの品質向上に共同で参加よることによって,よい知恵が出てきたり,誤りを見つけることができたりするわけで,このためソフトウェアの信頼性が高まっていく。一方,Windowsのようなものはヴァージョン・アップしてプログラムが巨大になればなるほど,沢山バグが出てきて直すのがとてつもなく大変になっていくわけです。しかも知的所有権の保護のもとでプログラムの中身ともいうべきソースコードが公開されていませんから,ユーザーがバグを見つけたり,それを改訂していいものを作ったりすることもできません。

このようなフリーソフトウェアを現実に生み出してしまったというところに,「お馬鹿なネットワーク」たるインターネットのすごさがあるんですね。お馬鹿にみえて本当はお馬鹿ではない。新しいものを創造することができるのですから。市場も同じように,「お馬鹿なネットワーク」というだけではないはずです。ですから,インターネットから市場を考え直すと,市場のメリットを保持しながら,現在の資本主義経済が抱えるデメリットを克服する方向性が見えてくる。私は,こういったフリーソフトウェア運動と,もう一方の,貨幣を自由に発行していこうというフリーマネー(自由貨幣)運動__ゲゼルが言っていますし,ハイエク自身も使っていますが__は非常に並行的な関係にあるのだ,と思います。そして,地域通貨はこの自由貨幣運動の一つのあり方としていま注目されてきているのです。

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さて,ここでようやく最初の話に戻ってきます。言語と貨幣がどういう点でパラレルなのかという点についてです。私がいまここで発している言葉というのは,皆さんの耳に入りますが次の瞬間には消えてしまう。すぐに忘れ去られることもありますし,記憶にとどめられることもあるでしょう。例えば,言葉がこうしてテープレコーダーに録音されることもあります。この場にいない人でも,テープを聞けば私が話したことを後で理解することもできる。あるいは文字に記録して本にすれば,恐ろしいことに,全然知らない人が読むわけですね。貨幣も同じように,経済的価値を保存,蓄積ができるわけです。その場で使わなくてもいいわけですから。

言葉によって私が何かを表現し,音声や言葉が誰かに理解される,そういう表現と理解は,経済における売りと買いと似たような関係にあります。言語や貨幣の存在そのものによって,表現と理解,あるいは売りと買いは時間的,空間的に分離される。いまここじゃなくてもいいんですね。私が話したことをこのテープによって明日誰かが聞くかもしれない。あるいは東京で聞くかもしれない。そこに話すことと聞くことを時間と空間の上で分離する可能性が生まれるんです。そうすると,困難はどこに生じるのかということが問題になるわけですが,言語の場合,表現と理解では,理解の方により困難がある。もちろん表現も難しいんですけれど,特に難しいのは言葉が理解されるかどうかです。理解が難しいということは,他者に何かを「教える」ことが難しいといってもよい。私が日本語で話していても,日本語を知らない人は全然理解してくれないわけです。あるいは向こうで話している人がいったい何語で話しているのかさえ分からないということもあるわけです。そういう意味で言語的コミュニケーションでは困難は理解にあるといえる。

それに対して市場経済では,買う方よりも売る方に困難がある。先ほどいった「命がけの飛躍」がそこにあるからです。このように,言語を媒介するにせよ,貨幣を媒介するにせよ,コミュニケーションには困難さがつきまとっているわけです。しかし,だからといって,言葉や貨幣がない方がずっとコミュニケーションがスムーズに行くかと言えばそんなことはない。私たちは時にそう願ったりしますが,テレパシーも物々交換もうまくいくはずがない。言葉も貨幣もどうしても必要なもので,それなしでは文化も,社会も,経済も成立しない。だけれども,そこにあまりにも大きな困難や断絶があるならば,それを解除する努力はしなければならないでしょう。

なぜここで言語と貨幣を比較してきたかというと,言語と貨幣のコミュニケーションの困難さが現実には関連しているのではないかと考えたからです。先ほどのケータイとフリマの話のように,現在の若者はコミュニケーション能力が非常に貧困化してきていると言われている。この問題の原因はもちろんいろいろあるでしょうが,私は,貨幣的コミュニケーションが肥大化していけばいくほど,言語的コミュニケーションが衰えていく傾向があるのではないか,それが大きな原因ではないかと考えたわけです。私たちが消費者や投資家として振る舞えば振る舞うほど,お金でモノが買える,お金で投資ができるということの当たり前さ,買うことの安易さに慣れていくわけで,これを言葉の問題に置き換えた場合には,自分がすぐに理解してもらえる,人と一体感が得られるようなコミュニケーションのあり方を求めていくのではないか,と。ケータイがこれだけ流行るのは,その一つの症候である,と。ですから,あまり相手に理解されなさそうなこと,同意を得られなさそうなことを言葉によって伝える努力を初めから放棄してしまう。あるいは自分の言っていることと相手の言っていることが食い違ったり,対立が生じたりという事態をできるだけ避けようとする。誤解や対立の回避こそコミュニケーション能力の低下の現れですね。言葉をうまく操れるかどうかという技術の問題というよりも,自分とは異なる人とぶつかれるかどうかという態度がひとつの問題になっているわけです。貨幣評価の一元化,貨幣による買いの肥大化が言葉による理解の困難を回避させるという結果を生みだしている,というのが私の現状に対する診断であるわけです。そして,こうした言語的コミュニケーション能力の衰退を克服する一つのツールとして地域通貨の意義を理解しよう,というのが私が特に今日問題にしたいことです。地域通貨についてはさまざまな経済的メリットがあるということは多くの人が言っていることなので,その点に関しては私はもちろん同意しますけれども,それ以上に大きな意味があるのではないかということがここでいいたいことなんですね。

地域通貨は確かに経済取引のための媒体ですが,それは同時に一般的なメッセージを含んだ標準型のプラットフォームであるともいえる。それにはさっき言った,「自由」とか「協同」とか「共有」とか「情報公開」とかいった,基本的な理念なりメッセージが既に埋め込まれています。固有名を持つさまざまな個々の地域通貨はこの一般的なメッセージ以外に,より特殊なメッセージを付け加えて人に伝えることができる。地域通貨は一般の貨幣のように経済的価値だけでなく,この汎用的なメッセージと特殊的メッセージをカプセルとして持てるということが非常にユニークな点です。この特性によって,地域通貨が形成する「地域」は,町とか村とか近所とか,人々が近くに住んでいるという事実によって成り立っている物理的なコミュニティを超えて,意味的なコミュニティになることができる。意味的なコミュニティというのは,単にこの村に住んでいるということではなく,なんらかのテーマや理念に共通の関心を持つような人々で形成されるものです。

例えば,環境保護に賛同する人々が集まれば,「グリーン円」なるものをお互いの取引に使うことでコミュニティを形成することができる。しかもこれがインターネット上で使えるということになれば,日本中,あるいは地球上どこにいても使えるという可能性があります。物理的には非常に離れているけれども,それが一種のコミュニティになる可能性がある。いままでもインターネット上でグローバル・ビレッジが作れると言っていたわけだけれども,それは何か同じフォーラムで同じ趣味を持っているからというレベルで考えていた。ここで考えているのは,そうした文化的なつながりだけでなく,経済的なつながりをも付けてしまうような,より踏み込んだ関係を持ったコミュニティですが,といっても,決して固く閉ざされたものではなく,どちらかというと緩やかで,フラットなコミュニティですね。地域通貨の可能性をこうしたコミュニケーションやコミュニティの形成能力という側面から見られるんじゃないかということです。

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 少し地域通貨についておさらいをしますと,地域通貨には次のような特性があります。

1.信頼を基盤とする一種の互助的,互酬的な交換を目指す

2.地域通貨の域内循環によって地域通貨経済の自律的成長を確立し,インフレの問題を解決す

3.ゼロないし負の利子による信用創造,投機,独占的資本蓄積を阻止し,財・サービスの取引活性化を目指す。この財・サービスの取引を活性化するというのはどういうことか簡単に説明しましょう。普通のお金がなくても地域通貨でモノが買えるというわけですから,まず買う方の需要が大きくなる。ということは同時にモノが売れる。ですから,売った人もモノが買えるようになり,この波及効果により売りも買いも活発になっていく。経済学的な言い方をすると,所持している貨幣の制約条件を取り除くことで有効需要を生み出し,それが全体の取引を活発にするわけです。さらに,利子を一般の貨幣の場合よりも小さくすることによって貨幣の流通速度が大きくなり,つまり,お金の周り具合が速くなり,取引が拡大するのです。

4.個人の福祉・介護ケアなどの一般には市場で売られないようなサービスをさまざまな観点から評価する仕組みを提供する。

5.これは私は重要な点だと思っていますが,NGONPOなど,従来の政府や自治体とか民間企業とは異なる組織が勢いを増して成長していますが,それらが労働,福祉,環境に関わる諸活動を横に連結してネットワークを作っていくための一定の理念とか枠組みを提示するために地域通貨は利用されうる。これは,地域通貨が一定のメッセージを人から人へと伝える性格を持っているからです。

6.地域通貨は,人々の間に「安心」ではなくて「信頼」を育む。「安心」と「信頼」という言葉は普通あまり区別されないで使われますが,ここでは両者を区別しています。「安心」というのは相手がよく知っている人で期待通りに反応してくれるので,自分に危害を加えられる心配はないということ,「信頼」というのは全く知らない人と会ったときにでも,まずは相手を信じることから始めるということです。北大の心理学者である山岸俊男さんが,アメリカと日本の学生を使って囚人のジレンマに関する実験をした結果を報告していますが,開放的で個人主義的な社会であるアメリカでは信頼が高いのにたいして,閉鎖的で集団主義的な社会である日本では信頼が低く,安心を求めているという研究を発表しています。地域通貨は,集団主義的な閉じた日本型共同体における安心ではなく,個人の自律を基盤とする開いたコミュニティにおける信頼を醸成することに役立つはずです。

ついでにもう一つおさらいをしておきましょう。いま説明したのが,地域通貨に共通する特性です。しかし,実際には地域通貨にはさまざまなタイプがあり,性格もそれぞれ異なります。大きくは,だいたい次の4つ,イサカアワーズ,タイムドル,LETSWIR(ヴィア),に分けられるでしょう。

イサカアワーズは,アメリカ・ニューヨーク州イサカというところで1991年に作られて,現在アメリカ,カナダ,北米中心にだいたい60団体くらいあります。この特徴は,1イサカアワーを労働1時間とみます。それを10ドルと考える。いわば労働の等価性を前提にしたような地域通貨で,ある意味ではロバート・オーウェンが考え出した地域通貨である「労働証券」に非常に近いものです。ところが,この方式というのはオーウェンと同じく一種の集中発行方式になっていて,イサカアワーズの場合は通貨発行を管理する委員会があって,そこが発行しているわけです。

タイムドルは,アメリカ,カナダ,フランスを中心に拡がっていて,労働時間を単位とするところはイサカアワーズと同じですが,記帳方式になっており,発行方式は個々人が行う分散型になっている。そして,通貨価値が労働に固定されています。国民通貨との併用は不可です(イサカアワーズは国民通貨との併用可能)。これは,福祉やボランティアなどのサービスに使われています。

次にLETSですが,私自身はこのLETSが最も普遍性の高い汎用型のモデルであると考えています。LETSでは残高には利子がつかない,つまり無利子になっていますが,このモデルを拡張して利子をマイナスにするということも可能でしょう。LETSにおける価格決定に関しては労働を基準とするということはなくて,基本的には参加者が自由に決めればよいという形式になっており,相対でお互いが決める。その点では一般の市場と同じようなシステムになっているというところが利点だと思います。もちろん,労働時間にリンクするものがあってもよいし,イギリスには実際そういうものもありますが,必ずしもそれが地域通貨の必要条件ではないと考えるべきです。それが必要条件だとすると,労働時間を一律に同じ価値だとみなす考え方を基盤とした,平等な経済社会を作らなければならない。しかし,誰もが口座ゼロから出発しますから,機会の平等はありますが,このLETSのシステム自身は必ずしも結果としての平等を実現するシステムではありません。実際の所得はバラバラになる可能性もありますね。ただ少なくとも先程から言っているように,「自由」と「協同」と「共有」と「情報公開」を実現する。この点をどう考えるかということは課題だと思いますが,私は,結果として生じる不平等のばらつきはあまりにも大きくならないならばよい,と考えます。

そしてWIRですが,これはスイスのチューリッヒでできた地域通貨で,最初は組合方式で行われていましたがが,その後,銀行組織になり,低利で企業に貸付も行っています。非常に大きい規模です。スイスの企業,中小企業が主ですけれど,17%,76000社が参加している。POSや電子決済などの近代的システムも導入しています。

これらの地域通貨の違いは,それぞれの地域の特性に応じてどういうものを使っていくべきか,あるいはどういう目的を中心に据えて地域通貨を導入するかに依存して決まってくるわけです。いま見ていただいたように,地域通貨というのは共通部分とシステムによって違う部分とがあるわけで,日本にもいろいろタイプの地域通貨があります。滋賀県の草津コミュニティ支援センターが発行する紙幣型の「おうみ」,これは地名からとっています。また森林事業が盛んな北海道下川町は通帳を使ったLETSを採用していますが,フォレストから取って「フォーレ」と名づけています。千葉県のNPO千葉まちづくりサポートセンターは,地元の特産品からとった「ピーナッツ」というのを使っています。このように,それぞれの地域をイメージさせるような名前を付けているのですが,それと同時に例えば自分のところは森林事業を核にしてやっていくんだというようなことをアピールできる。このように名前そのものがメッセージ性を持っているという側面がとても面白いと思います。

最後に,多少繰り返しになりますがまとめてみます。要するに,いままで貨幣というのは何なのかというと,経済取引を媒介する手段,経済的価値を富として貯め,あるいは資本として増やすための手段でした。だれもが欲しいけれども,露骨に欲しいというのはいやがられるし,求めるのもはしたないというような,賎しさを持つものだったわけですね。この貨幣の賎しさへの嫌悪が,人々に国家社会主義的な計画経済,つまりお金や市場がない経済システムへと向かわせた。だけれども,旧社会主義諸国の崩壊から,個人が自律するための一つの基盤として市場経済や貨幣があるということは認めなければならない。ただ同時に,グローバル化した貨幣や市場が一方では非常に過大な富の蓄積や投機を生み出したり,経済の不安定性を生み出したり,失業の問題を生み出したりする。そういうことも見ていかなければならないわけです。このようなデメリットを抑えていくような形で,貨幣や市場のメリットを保持できるようなシステムが望ましい。

地域通貨というのは,非常にシンプルでプリミティブに見えますけれども(実際プリミティブなんですが),こうした優れた特性を備えているのです。いままで商品自体がメッセージを持ったりとか,不買運動などを通じて買うことや売ることがメッセージを持つことはあったんですが,貨幣そのものがメッセージを持つということはあまり考えられなかったんですね。これからは,貨幣そのものが多様な価値を凝縮し体現するメディアになっていくのではないか。経済的な価値だけでなく,より多様な価値を私たちが表現したいという場合に,従来の貨幣と言語の複合体ともいうべき地域通貨が使われるようになるのではないか。そのようなことを考えています。私の話と皆さんが地域通貨について考えていることがうまく結びついたかどうか,自信はありませんけれども,説明不足な点は質疑応答という形で補いたいと思います。
 

以下質疑応答

Q(札幌市職員)

ロバート・オーウェンという人が基本的な考え方を提唱して,それが実際にさまざまな運動に行ったと思うのですが,私達が知っているのはそれが実際には失敗したということなんですね。失敗したのは理論的に問題があったからなのか,社会的諸条件に問題があったからなのか分からないのですが,なぜその時代の試みは失敗したのか,そのあたりをお聞きしたいと思います。

ロバート・オーウェンはエンゲルスにより空想的社会主義者だというレッテルを張られたので,その後マルクス主義者の中では非現実的な夢想家のように扱われていますが,私はそうは思いません。マルクスもオーウェンは高く評価していたのです。

彼は,先駆的な社会主義者であり協同組合運動の創立者ですが,また最初に産業革命を批判した人でもあります。オーウェンは,実にさまざまな点で実践的であるとともに現実的です。スコットランドのニュー・ラナークにある自分の工場----ニュー・ラナークには私は4年ほど前に行きましたが,いまはスコットランドで最も人気あるテーマパークになっているんですよ----でさまざまな実験を行いました。自分で工場を運営し,それを大きな成功に導きつつ,産業革命を実践的に批判しているのです。彼は,10時間労働,休業時の賃金支払,家屋の修繕を実行し,規律や清潔さや倹約を労働者に教え,よい労働条件が事業の繁栄と十分両立することを証明しようとしたのです。オーウェンは,そこで児童教育を行ったり,新しい経営理念を生み出したり,近代的な労務管理を行ったりしました。このような試みの多くは現代に遺産として残されています。また,工場の敷地内に生活品の原価販売所も設置し,工員が使うための一種の地域通貨を導入してしました。地域通貨もこのレベルではうまくいっていたわけです。オーウェンは,その後アメリカに渡ってニュー・ハーモニーに土地を買い,そこに自分たちの理想の村を作ろうとしたのですが,そこでは失敗してしまい,イギリスに戻って,ロンドンで先ほどの労働証券の実験を試みるわけです。

なぜうまいかなかったのかということについて私がみるところ,やはり労働証券が労働価値説を基盤にして考案された点に問題があったのではないかと思います。何時間働いたかということで価値が決まるとすると,お互いに同じ時間をかけて作った商品を労働証券を介して交換することになります。例えば一方が大工さん,もう一方が鍛冶屋さんでそれぞれが同じ時間かけて作ったものを労働証券を介して交換するとします。問題なのは,大工と鍛冶屋の労働は一時間なら一時間と考えていいのか,また,鍛冶屋は鍛冶屋でもいろんな能力の人がいるということです。大工と鍛冶屋ならそう問題はなさそうですが,大工と医者,鍛冶屋と弁護士の場合,同じ1時間が同じ価値を生むと考えていいのでしょうか。また,腕のよい鍛冶屋とそうでない鍛冶屋がいて,同じ時間かけても出来上がりに差が出てきたりするわけですね。でも生産物を同じ物だと見なして,取引をしなければいけないんです。つまりすべての商品について,これはいくら,あれはいくら,というように中央委員会が決定して提示しなければならない。そうした公定価格が人々の実際の評価とは乖離することが出てくる。その乖離が実際に買う人の間で不平等感を生み出して,一般の労働者より大きな価値を生み出していると考える医者や弁護士,他の鍛冶屋よりもよいサービスをしていると自認する鍛冶屋は損をするので参加しなくなる。と同時に,実際にはそこに売買で儲けようとする商人が介在してくると,たちまちこのようなシステムはうまくいかなくなるであろう,と私は考えています。

やはり同じ1時間の労働ということだけで人々の成果を一律に評価することには問題があるということです。ですが,現代でもイサカ・アワーズなどはそれでやっているわけですね。ある程度の大きさまではそれほど問題なくいくかもしれない。しかし逆にいうと,自分は1時間に10ドルよりももっと稼げるんだという自信のある人は参加してこないと思うんです。ですから,やはり私は1時間の労働はいくらというよりは,相対で価格を決めるというのが最も合理的で自然な設定だと思います。ある人の労働1時間は10ドルよりも高く評価されていいはずです。LETSが広がっているのは,労働にリンクしていない性質にあるのではないでしょうか。

もうひとつはなぜ地域通貨なのかということですが,オーウェンの時代には,まだ社会主義社会というのはシステムとしてはどこにもなかったわけです。だから一定の地域に理想郷を創るということを目指した。19世紀後半以降は集権的な計画経済の方が本物の社会主義であると考えられていたわけですから,そういう点からいうと,どうしても地域通貨はマイナス・イメージで捉えられていたと思います。もちろん,地域通貨の流れというのは18世紀からありました。フランクリン,グレイやプルードンにしてもそうですし,あるいは20世紀のゲゼルにしてもそうです。地域通貨がもう一度注目されるためには,集権的な計画経済がうまくいかないんだということを実際の経験を通じて再認識することが必要だったのではないでしょうか。そのことによってはじめて地域通貨の可能性が再認識されたというのが,90年代からいま現在にかけて起こっていることではないかなと思います。

Q(北海道庁職員)

私はNPOのメーリングリストに登録しており,その中で帯広の十勝毎日新聞の記者が地域通貨に注目しているとありました。栗山が人口約11000人,下川町は5000人を切っているくらいでいずれも小さな町ですよね。それに対して帯広は20万人も人口があるわけですが,このような規模の町でも地域通貨を導入して果たしてうまくやっていけるのかどうかという質問があり,メーリングリストに載ったのですが,いまだに誰にも答えてもらってない状態なんです()。それで,地域通貨を導入するのに,どの程度の大きさの町まで可能なのかということをお聞きしたいです。逆に人口約170万の札幌で市全体に通じるような地域通貨をやっていくことが可能かどうかも含めてお答えいただけたらと思います。

そうですね,それはむしろ私がここで答えるよりも,実践的に答えなければならない問題だと思いますけれども。

LETSの発祥地であるコモックス・ヴァレーでは規模が大きかった時で600人,現在では450人です。通常イギリスなどで行われているものでは,小規模で平均では100人を切るはずです。それが1000人,10000人…となってまったく顔が見えない匿名的なものになったときにうまくいくのかということだと思うんですけれど。先ほど説明したWIRは銀行組織になっているとはいえ,76000社の中小企業が参加しています。

先ほども言いましたように,地域通貨というものは信頼を基盤としているわけです。LETSの場合,この仕組みを考えてみますと自分が貨幣をもっていなくてもモノが買えるということで,すぐに赤字が生み出せるような主体,つまり貨幣を発行する主体なんです。貨幣を発行する主体としての責任を個々人が負うというようなシステムに本来はなっていて,そこにどの皆がどの程度参加することに対するコミットメントを持てるかということが鍵です。一方で中央銀行みたいな中央があって,そこが勝手に恣意的に発行するのがいやだというふうに皆言うと思うんですけれど,じゃあ自分が発行する主体になったときに,自分が赤字を作っちゃうことに対して責任を持てるだろうか。自分で発行するのも面倒くさいなという部分もあるし,まあできれば自分が赤字を作るだけ作っておいて,さっと居なくなってしまえば,もうかるなというふうな考え方ももちろん出てくると思いますけれども,私の聞く限りでは,だいたい500人レベルでやっているところでは,それほど問題は起きていないということです。ただ帯広レベルの20万人都市でやったときに,-----20万人都市だからといって20万人全員が入るということではないですよね(笑),せいぜい500人から1000人ぐらいでしょう------うまくいくかは分かりません。

ただ,アルゼンチンのRGT(グローバル交換リング)がブエノスアイレスの近郊にありますが,これはかなりの規模ですね。20万人以上の参加者がいるとされています。20万人が一つの地域通貨を使っているということではないので,これは「地域通貨連合体」とでも言った方がいいでしょう。500人,1000人レベルのものが何百集まるというかたちで作っているものです。ですから帯広規模,あるいは札幌規模の町でも,こういう地域通貨のネットワークという形でなら可能なのではないかと思います。

Q(北大法学部・民法担当教官)

私はボランティアとかNPO理論的な興味を持っていまして,それとのつながりで,地域通貨にもつい最近興味を持ち始めたという段階です。私の質問はやや抽象的になってしまうんですけれども,今日の研究会を前にして,すこし西部さんがお書きになったものを急遽コピーして読ませていただきました。北大経済学部の紀要「経済学研究」471号で「互酬的交換と等価交換」という題で書いていらしゃった論文を見つけて,これは私の専門外なので途中を飛ばして結論部分だけを理解しただけなのですが,そこではLETSというよりも,互酬的交換と等価交換というもっと広い問題を考えているようです。そして,LETSのような互酬的交換のシステムと市場の等価交換原理と対比させた場合には,やはり圧倒的な隆盛を誇る,しかもグローバルなかたちで展開する市場の等価交換原理の前では贈与のネットワークというものは脆いもの,弱いものだというのが結論であると感じました。私もどうもその点が前から気になっていることなんです。

地域通貨だけに限って申しますと,地域通貨と例えば円のような国民通貨がどう関係するのかという全体のイメージがよくつかめない。例えば,かつての一個の家庭では老人介護は家庭内での一種の互酬的なやりとりで,お互いに世話したり,されたりという関係でやってきたわけですけれども,それが例えば社会全体が公的介護保険により家庭機能を担っていく,あるいは,お金を出せば家庭機能は外注できるというような状況が出てくる。たぶんそういうことと関わるのですが,家庭を仮に地域通貨が使われる共同体とパラレルに考えるとすれば,西部さんが書いていらっしゃるように,共同体の互酬的関係を維持していくためには,市場交換の等価性を発生させないような,あるいは外部からそれを持ち込ませないような規範やサンクション(制裁)がどうしても必要になる。このように,地域通貨がそれなりの価値を持って機能していくためにはそれに参加しているメンバーの等価意識が大きな問題だと思います。しかし,周りが圧倒的に市場原理あるいはグローバルな貨幣経済で動いているときに地域通貨は果たして負けずに生き残っていけるだろうかという疑問があるので,そのあたりをお聞かせ頂きたいと思います。

難しい問題だと思います。ひとつは市場原理と互酬原理がぶつかったときにどうなるか,あるいは市場原理が互酬原理の中に入っていったときに互酬原理が生き残れるのかどうかということが問題になるわけですね。地域通貨の場合,こうした問題にどう対処していくかというと,内部通貨である地域通貨を外部貨幣であるドルとか円などに兌換させないというかたちでクローズなシステムを作ってカバーしているわけです。それをさせると内部で発行された貨幣がどんどん外部の通貨と兌換されることによって発行量が非常に小さくなってしまうということが起こり,地域通貨の存続が難しくなる。そこで,地域通貨には市場原理を外からもち込ませないような仕組みが施されている。コミュニティでは,貨幣で売買しないといったルールや余所者と関わらないという規範があり,それを破った者を「村八分」により制裁するわけですが,地域通貨は制裁というよりは兌換不可というルールを最初から埋め込んであるわけです。にも関わらず,こういった地域通貨というものがいまグローバリゼーションといわれるような市場原理が圧倒的に強い時代に生き残っていけるのかというご質問だと思います。

私の先生でもある東大の岩井克人さんは,こういうコミュニティ的なネットワークはこれからもささやかな存在としては生き残っていくだろう,といいました。彼は「ささやかな」という言葉をわざわざ付けて強調したわけですね。「ささやかな」レベルでは残るというのはわかると認めるわけです。もちろん,私は,単にささやかに生き残ることを考えているわけではなくて,もっと大きく広がっていくと信じているので,このコメントには少々反発を感じたわけです。けれども,確かに小さな地域通貨が個々バラバラに存在していたらおそらく成長することはできないだろうとは思います。個々に孤立した,「ささやかな」互酬的な経済と市場経済とを戦わせたら,あるいは,利他的な原理と利己的な原理を単独で戦わせたら,互酬的な経済は必ず負けてしまう。だから,互酬的なものはリンクして全体として大きなネットワークを作っていく必要があるのではないかなと考えています。

経済学でゲーム理論というのがありまして,その中に囚人のジレンマというゲームがあるんです。犯罪をして捕まっている二人の人間がいて,お互いが隔離されたまま尋問されている。両方とも自白してしまったら懲役10年,でも自白しないで黙秘していたらそのまま出られる。でも一方が自白して他方が黙秘していると,自白した方は即時釈放だけれども黙秘を貫いた方は懲役20年になってしまう。こうした状況では,お互いに相手の出方をいい方でなく悪い方で予測して,それに最善の形で対応しようとするならば,両方が自白してしまい懲役10年になってしまう。これがプレーヤーの合理的な選択の結果得られる,このゲームの解ですが,お互いに決して好ましい結果ではないわけです。だけれど,これは一回切りのゲームです。今度は,同じ囚人のジレンマゲームを無限に繰り返すというゲームを考えてみる。この繰り返しのゲームをする場合,どういう戦略がよいのだろうか。繰り返しを考えると,相手を一回だけ出し抜いて逃げることができない,つまり,自白してしまうことができないわけです。なぜなら,次に必ず仕返しを受けるので。でも最後の一回は一回切りの囚人のジレンマと同じですから。必ずお互いに裏切ります。すると,その前の回もお互いに裏切り,それが波及していって結局,最初から最後まですべての解でお互いに裏切るという最悪の結果になってしまう。繰り返し回数が有限ならこうなってしまいます。繰り返し回数を無限回にすると,最後の一回がありませんから,相互協力が発生するのです。これが慣習であるという理解もできるでしょう。

この主人のジレンマの繰り返しゲームでいろんな戦略同士を戦わせるて,その獲得点数を合計してみると,長期的に一番強いのはTFTTit For Tat)といわれるような戦略です。TFTというのはどういう戦略かというと,非常に単純な戦略なんですが,相手が裏切ったら自分も裏切る。相手が協力してくれたら自分も協力する。つまり,相手がやったことをただオウム返しに繰り返すという,最も単純な戦略です。だからTFTには「しっぺ返し戦略」とか「オウム返し戦略」とかいろいろな訳語がありますけれども,とにかく,コンピュータ・プログラムによるトーナメントを二回やったけれども,二回ともこのオウム返し戦略が優勝してしまったわけです。もちろん,もっと複雑な戦略が考えられるわけですね。2回裏切ったら自分も初めて裏切るとか,相手が裏切らない戦略だったら,それを見抜いて,自分は裏切りつづけるようなあこぎな戦略を考えることもできますよね。そのようにもっと複雑で賢そうなプログラムがい参加したのに,いずれも長期的に見た場合に獲得する点数が最高だったのがオウム返し戦略だったんですね。なぜオウム返し戦略が生き残ったのかを研究してみると,こういうことが分かったわけです。オウム返し戦略というのはオオカミのような人が来て裏切ったら,次回からは裏切り返すというわけですから,例えばずっと協力しつづけてきて,最後のところで相手が裏切った場合には,相手の方がポイントが高くなることが起こります。そういう意味ではオウム返し戦略は必ずしも賢くない,人がいいんですね。そういう相手につけ込むような戦略が来たときには確かに負けるだろうけど,オウム返し戦略同士が対戦したときには全ての回において相互協力にあるわけですから,全部の対戦成績を通してみると,平均点が高くなるんですね。そういう結果として生き残る。ですから,地域通貨というものが単純で馬鹿な戦略であるならば,ある程度は付け込まれる隙があるかもしれませんが,地域通貨同士が常に協力することによって平均的に高い持続を得て生き残ることができる。これはevolutionary game(進化ゲーム論)といわれる分野で最近研究されていることなんですけれども,そこからの類推で考えると,地域通貨についても同じようなことが言えるんじゃないかなといまちらっと思ったのでお話しました。地域通貨も孤立して市場経済と対戦せずに,地域通貨同士でできるだけ対戦する方がよいということになる,つまりネットワークを形成すべきということです。

もう一つは,家族もそうですがコミュニティというのは,損得勘定が全くないとは人間ですから言えないかもしれませんが,損得勘定を基盤にしているかというとそうではない。愛情というものは等価性がないんです。僕がこれだけやってやったんだからこれくらいしてくれていいじゃないかというようなことは感情的にはあるかもしれませんが,等価性というのは基本的には測れるものではないですよね。等価性の原理ということで私が言いたかったのは,まさに貨幣において媒介されるようないわば数量化できるような関係とできない関係がある。それで,互酬みたいなものは二者間で,例えば私は本をあげた,相手は水をくれた,本は1500円で水は100円だとすると,貨幣的に考えれば私の大損ですが,私たちが普通プレゼントするときにはそういうふうには常に値段だけでは考えないですよね。だから単にモノをあげたりもらったり,贈与したり返礼したりすることにおいては等価性というものは本来はない。貰った方としてはちょっと負い目があるから何かお返しをしようとする,という意味ではあるかもしれませんけれどね。それをもう少し厳密に経済学的に考えてみるとどうなるか,例えば2人ではなく3人になった場合にどうなるかというようなことを先ほど話に出た北大の論文や批評空間の論文などに書いています。LETSは不思議なんですが,基本的にはこういうことが言えます。全員がうまく取引をして全員が黒字も赤字もないゼロの状態がかりに成立したとするなら,その瞬間に互酬的な経済が成立する。だからそれが成立しているときには等価性をいうことができない状況になっている。だけれども,それが常に達成されているということはない。しかし皆がそれを目標にして参加しているのは確かなので,人々をお互いに支え合う,ある種の理念ではあると思うんですね。ですから互酬性というのが現実に常に動いている原理じゃないけれども理念としては存在しているというのが私の考えです。言い換えると,損得勘定とか等しいとか等しくないということが意味を持たないような瞬間において互酬が成立しているということです。しかしそういうことは奇跡のようなもので,めったに起こりません。通常は,皆バラバラに赤字や黒字を抱えていますから,完全な互酬性にはなっていないのです。

Q(下川町の近くの町役場職員)

2点お聞きしたいことがあります。まず一点ですが,『可能なるコミュニズム』という本の中で柄谷行人さんがLETSに関心を寄せていらっしゃるようです。彼が目指している本来的なコミュニズムのひとつとしてLETSや先生の理論に関心をもっていらっしゃるんじゃないかと思うんですが,柄谷さんの言っていることを分かりやすく解説していただけないか,というお願いです。それからもう一点は,この本にもあったので資料を取り寄せたのですが,「北方圏諸国に見る地域活性化の新動向」という北方圏センターで出している本の中に先生が書かれている中に北海道経済活性化への提言がありますが,そこで地方政府,道庁なり市町村なり自治体の役割が地域通貨について啓発など一定の役割をすべきではないかと書かれていますが,あらためて地域通貨を北海道の市町村なりでやっていくといった場合,役所の役割はどのようにお考えかをお聞かせいただきたいと思います。

私は柄谷行人のスポークスマンではないですし(笑),彼自身もあの本の序文でいっているように,必ずしも執筆者の意見が一致しているわけでもない。『可能なるコミュニズム』というタイトルを付けたのも彼で,私自身は付けていないんですよ。「これでいいですか」とメールが来たときに,このタイトルがどういう印象やイメージを人々に与えるかということももちろん最初に想像して「どうかなあ?」と思ったんですけれども,柄谷さんのセンスは常に時代の先を読んでいて,ナンセンスと見えるものが大体今まで当たってきているので,「まあこのタイトルでいいか」と考え直したわけで。そういう意味においては,私にも責任はあるのかもしれないんですけれど(笑)。

いろんな人にも言われたんですけれど,地域通貨をコミュニズムとあまりくっつけない方がいいんじゃないか,もっと普通の市民運動という感じでやってもいいんじゃないか,と。私自身は経済学では社会主義経済への批判的な論争を研究してきたりしているんで,特に集権的な計画経済とか,ソ連型の国家社会主義経済に関しては全然賛同できないわけです。コミュニズムが国家所有と経済計画の結合した経済体制を意味するならば,それにはまったく反対です。けれども,コミュニズムがどういう意味なら可能なのかを考えることは無意味ではないと思う。

柄谷さんは,唯物論はヒューモアであると言っているが,コミュニズムもそうだと思う。彼がいうヒューモアというのは,お笑いとか冗談ということではなく,自分や自分を含む世界と歴史に対する個人の態度に関わるものです。斜に構えて皮肉ぶるのでも,冷めているわけでもない,かといって,楽観的というのでもない,それに,自分の運命を客観的で冷静に見ているのに,超越して上から眺められるものではないというパラドックスから来るおかしさが人々に自然に笑いと解放を与えるような,そんな態度のことです。コミュニズムはカントのいう統制的な理念としてとらえているわけですから,それは運命を強く生き抜くための導きの糸であって現実の経済社会体制を意味しているのではない。むしろ現実化してしまったらだめになるわけですから。理念に基づく継続的な運動があるというのが現実ですよ,というのが彼がいいたいことではないですか。もちろん,これは彼が言っていることであって,私の考えではないですよ(笑)。

つまり,「自由であれ」ということがすべてです。だからカント的な「自由であれ」という命題をいわば自らの義務として,コミットメントとして引き受けること,それが本当の意味での自由であり義務なんだということ,コミュニズムもそこから説いているんでしょう。

私は,地域通貨の理念については「自由」を中心に考えています。「コミュニズム」という言葉を使ったことはありません。自由ということに関してはいろんな議論がありますけれども,基本的には自分の外部の強制的な圧力や権威によって束縛されないし,そういったものに依存しないということ,すなわち,自分が自らを律するということですよね。しかし,考えてみれば,何にも束縛されない自由なんていうものは形容矛盾です。なぜなら,生きていること自体まったく自由ではないですから。誰も自由に親や時代を選択して生まれてきたりできないわけですから。自分の性や性格や能力を選ぶこともできなかったのですから。つまり,ある与えられた歴史の中での与えられた自分や状況から出発しなければならないのですね。しかし,そうした与えられた自分や状況からも自由になろうとするわけです。例えば,貨幣とか市場とか市場主義経済などに関しても同じような議論をしてみてもいいと思います。貨幣から自由になるということはどういうことか,と考えてみる。貨幣から自由になるということは,貨幣を廃棄して,貨幣のない社会を作ることだとかつては考えられていたんですね。しかし,貨幣のない社会を作ろうとすると,財やサービスの生産や消費をすべて中央で計画的に配分しなければなりませんから,必ずうまくいかないし,活力がなくなって社会が病んで死んでしまう。それは,私たちの考えはすべて言葉により制限されているから言葉を捨ててしまえ,といっているのに近い。あるいは,人間には死ぬ自由があるというのと同じです。しかし,自由になるということは,今とは違う新たな貨幣を作ることではないか。自由な世界とは,貨幣のない世界ではなく,別の貨幣,別の市場があるような世界ではないでしょうか。その場合,どの方向へ進むべきかという理念が必要であり,それを自律的に選ばなければならないのです。

もうひとつのご質問は,じゃあいまの中央政府や自治体はどうするんだということですね。LETSにしても他の地域通貨にしても,全部が草の根的に下から出てきているわけです。1930年代のゲゼルのスタンプ貨幣の考え方をもとにして出てきた運動などもほとんどが市民が自発的にやったもので,誰か上からこうやるべきだということで出てきたものでは決してないんですね。日本は,いまだに官僚国家であり中央集権的です。北海道には財政的にも経済的にも中央依存体質が強く残っていますね。ですから上から「いいことだからやれ」と言われたらやるかもしれないけれど,そういうのでは本物とは言えません。やはり一人一人がこういうものを作っていこうという自覚の中でやっていくべきでしょう。では行政はどうすべきか,ということになりますが,もちろん行政も市民の声をくみ上げていろいろな政策をやっているわけですけれども,地域通貨の場合には行政が主体になってしまうのではなくて,下から出てくる運動を育てたり,サポートしていくような施策をとるべきだと思います。行政が地域通貨の発行主体になると,いままで中央銀行がやってきたことを札幌市あるいは北海道がやることになってしまいます。それではあまり事態は変わらない。もちろん,地域通貨の運営主体にある程度の財政援助をしていくことは一つの方法だし,必要なことですが,もっと重要なのは,やはり地域通貨をより多くの人々に理解してもらうような啓蒙活動だとか,地域通貨を地域に根付かせる普及活動だと思います。例えば,通産省の加藤さんが来たからやるんだというようなことではちょっと困るわけですよ(笑)。私は最初からそういう懸念があったので,あの報告書にもまずそういうことを書いたわけです。そして,その懸念は全く現在もなくなってはいませんから常に言っていくつもりです。その点を十分に注意しないといけない,特に日本の場合はそういう傾向が強いですから。カナダとかアメリカなどはもともと自治的な土壌があるんですね。5人や10人でさっさと地域通貨を始めてしまうんです。広がりすぎると,政府の方が慌てて抑圧してしまうわけですが,これとまったく反対に,日本の場合は親切過ぎる。悪く言ってしまうと,面倒見の良すぎる親分みたいなもので何でもやってしまう。でもそういうふうにやられてしまうと,スポイルされる部分もあるわけですね。だから,地方自治体はこの点を十分考慮しつつ自分の役割は何かを考えて頂けたらと思います。

Q(環境関係のNPO参加者)

素朴な質問なんですが,先ほどから何度も出てきている互酬性というのを分かりやすく定義していただきたいのと,もうひとつはアルゼンチンのRGTというところで地域通貨連合ができているという話があったんですが,これはそれぞれのコミュニティが別々の地域通貨を持っていて,それに互換性があるという意味の地域通貨連合なのかどうかということを教えてください。

互酬性の定義を簡単に説明せよとのことですが,皆さん日常的にやっていらっしゃるのではないでしょうか。プレゼントを誕生日にあげて,次の自分の誕生日にお返しをもらうとか,お中元やお歳暮をあげて,お返しをもらうとか,そういうふうなことです。普通にいわれる交換というのは,あげることともらうことが同時に行われ,しかも,あげるものともらうものが常に価値として等しくないといけない,つまり等しい価値を持つものを相互に移動するという考え方がありますけれど,ここでいう互酬というのは贈与とその返礼からなる体系ですね。だから,贈与にたいする返礼は時間がだいぶたってからでいいし,また同じ価値のものである必要はないんです。

例えばAさん,Bさん,Cさんの3人がいるとします。AさんはBさんにりんごを10個あげる。BさんはCさんにみかんを20個あげる。CさんはAさんにバナナを5本あげる(図1)。こういう関係のときに,AさんはBさんにりんごを10個あげてCさんからバナナを5本もらっているわけで,AさんとBさん,AさんとCさんの間には贈与しかなく,直接的な交換はないわけですけれど,AさんはBさんにあげたリンゴ10個の「対価」として,Cさんからバナナ5本をもらったというように考えることもできる。すると,これをリンゴとバナナのある種の交換のようにみなすこともできる。これが互酬です。あげたものともらったものは本当に価値として等しいかどうかはわからないけど,りんご10個とバナナ5本が等しいとみなすことになる。同じく,Bさんはりんご10個もらってみかん20個あげているわけですから,全体としてりんご10個=みかん20個=バナナ5本という等しい関係があると考えるわけですけれども,こうした贈与と返礼の関係がもう少し複雑に絡み合ってくると,あげたものとお返しにもらうものが等しい価値を持っているともいえなくなるんです。これを互酬的交換といっているのですが,それは,等しいとか等しくない,公平とか不公平ということが定義できないような関係なのです。そのかわり,全体の関係が繰り返し再生産される可能性はある。共同体やコミュニティにはこのような互酬的な関係があったのではないかと思います。

例えば,先より複雑ですが,次のような贈与と返礼の関係があるとしましょう。AさんはCさんからバナナ5本をもらったので,お返しにCさんにりんご3個をあげる。CさんはBさんからみかん20個をもらったので,お返しにBさんにバナナを4本あげる。BさんはAさんからりんご10個もらったのでお返しにAさんにみかんを10個あげる(図2)。こういうのも互酬関係としてはありえるわけです。しかし,この場合,全体を見ると,リンゴとみかんとバナナの交換比率はうまく決まらない。なぜかというと,AさんとBさんのやりとりではリンゴ10個=みかん10個になっている。BさんとCさんのやりとりではみかん20個=バナナ4本になっている。だから,リンゴ10個=みかん10個=バナナ4本という式が成り立つといえそうです。でも,AさんとCさんのやりとりでは,リンゴ3個=バナナ5本になっている。これは先の等式と矛盾してしまうんですね。等しいということがいえないのに交換というのも変ですが,でもこれ自身も一種の交換であると考えてもいいだろう。だから,これを互酬的交換と呼ぼうということです。互酬というのは要するに,等しいとか等しくないとかを常に言えるとは限らないような取引のことです。

地域通貨ではこういう関係が成立することがある。これを私は「情けは人のためならず」という原理だといっているのです。いまある人に情けを掛ければ,その人を依存心の強いダメな人にしてしまうからやめたほうがいいとか,いまある人に情けを掛ければその人から将来同じだけの情けを返してもらえるはずだとか,いった解釈は正しくないんですね。これは,いまある人に情けをかければ,巡り巡って別の人から情けが返ってくるというということをいっているからです。つまり,情けという「贈与」が循環してくることを信じているわけですね。これがコミュニティの基本原理だと思います。

それからRGTに関してはおっしゃるとおりで,かなり多数,数百の地域通貨連合がそれぞれ持っている地域通貨を互換性を持ったかたちでリンクして20万人以上の参加者をもつネットワークを形成しています。